前章では『ふらいんぐうぃっち』の世界観が、「魔女」や魔術、そして人ならざる存在を交えながらもあくまで一般的な人間たちの日常を活かす舞台設計になっており、力を抜いて楽しめるということを述べた。そして、当たり前だが作品というものは世界観だけでは構成されない。そこに生活をする登場人物たちの行動によってより立体的に、より鮮やかなものとして顕現する。この章では、そんな物語の世界を泳ぐ登場人物について記述をしていく。尚、予め設定しておくが、仮に、当作品で誰が出てくるかなどということを普通に記述したところでそれは公式の開示している情報と同等の意味しかない。しかし、筆者がわざわざこのような章を設けたのには意味がある。まず、アニメの性質から、物語を概括していく上でキャラクターの性質に接触することは避けられないからである。アニメでは、動くのも話すのもキャラクターであり、そのキャラクターたちの行動によって物語は進行する。製作する人間の都合はあったとしても、その作品という世界だけを切り取れば、彼らは立派な役者であり、住人だと私は考えている。そのため、すべてではないにしろ、彼らに多少なりとも焦点を当てる必要があるのだ。そして、もうひとつの理由としては、wikipediaや作品の公式ホームページに掲載されているキャラクターの個人情報量があまりにも乏しいと感じたからである。しかしこれは致し方ないことでもある。だが、私が記述をする以上、何かしらの付加価値、もしくは個人的主張を加える必要性を勝手に感じたため、そのあたりのことを登場人物の紹介も兼ねて行えればと思った次第である。
まず、今回取りあげる登場人物は倉本千夏である。実際は数多くの個性豊かなキャラクターが登場するのですべてに言及したいところだが、登場人物ばかりを述べるわけにはいかないので先述した通り、割愛させていただく。倉本千夏は主人公木幡真琴が居候する家庭の長女である。作中の設定では9歳(小学校3年生~4年生)[1]であり、当初は猫と会話する木幡真琴を警戒していたが、打ち解けることになる。まず、このキャラクターを選択した理由であるが、アニメ『ふらいんぐうぃっち』の方では、原作よりもこのキャラクターを重要視し、丁寧に描いている印象を受けたからである。例えば、アニメ第5話「使い魔の活用法」のAパートは、原作では描かれていないアニメオリジナルの部分である。[2]本意ではないが、内容に触れないと説明することができないので、未視聴の方には先に謝罪をしておくと、アニメAパートとBパートはリンクしており、Aパートは木幡真琴の猫であるチトの散歩を倉本千夏が好奇心から尾行し、その道のりを共有するものとなっている。そして、続くBパートでは原作にもある通り、木幡真琴が猫のチトを案内役として設定し、散歩を楽しむことになる。ここで注目したいのが、なぜチトだけの散歩ではなく、そのチトを倉本千夏に追わせたのか、というところである。アニメというメディアで制作される作品の中には、稀にサイレント映画のような手法でBGMと効果音だけでキャラクターを動かす演出が試みられる。1話分サイレントにしてしまう場合もあるし、数分の間だけという場合もあるが、いずれにしろあまり珍しいものではない。この手法を利用すれば、チトが猫の視点で独りぶらぶら散歩をするだけの話でも作品の特色とも相まって十分に楽しめたはずである。だが、そうせずしっかり倉本千夏を登場させている。この部分に関しては、私個人が疑問に思っているだけなので、本来気にするところではないのかもしれないが、この部分は倉本千夏というキャラクターを原作以上に掘り下げようとする制作側の意図があるのではないかと考える。
少しアニメ第5話「使い魔の活用法」Aパートについて詳しく見てみよう。ある日の休日[3]、倉本千夏は木幡真琴の猫であるチトがひとりで散歩に出かけるところを目撃する。普段から倉本千夏とチトの関係は良好であり、このことはアニメ第3話「畑講座と魔術講座」Aパート、原作コミックス第3話「国鳥は鳴き止まない」P.71から判断できる。チトが誰かと一緒にいないとき一体どこへ向かうのか、好奇心旺盛な倉本千夏は気づかれないよう慣れない尾行で探っていく、という筋書きだ。チトは民家の飼い犬や桜の木、公園などを巡り、最終的に倉本千夏はチトも魔法が使えるすごい猫だと勘違いをして不思議な高揚感を抱きながら自宅へと奔走する。この過程で倉本千夏はとある婦人から地面に落ちる前の桜の花びらを大切に保管しておくと恋が成就するというおまじないを教えられている。話しかけられた当初はなんとなく大切にしようとポケットに入れておくが、帰宅し昼食前の手洗いを行った際にその桜の花びらを水道に流してしまう。異性や恋に敏感になる思春期の少女であれば、多少なりとも悲しげな表情をしてもよさそうだが、倉本千夏に関しては特に気に留めた様子もなく、空腹を満たすため家族の待つ居間へと向かうのであった。
このことから考えても、倉本千夏は年相応の「色気より食い気」の少女であり、朝食を食べながらもしっかり身体を動かして昼までにおなかをすかせている辺り、活発さをうかがわせている。[4]原作ではこのような色恋話が倉本千夏に話題として振られる機会があまり見られないため、年齢相応さを引き立たせる興味深いシナリオに仕上がっている。
また、倉本千夏について考える上で外せないエピソードがアニメ第2話「魔女への訪問者」Aパート[5]とアニメ第6話「おかしなおかし」Aパートだと考えるため、概略とその解釈について記述をしておこうと思う。尚、倉本千夏に関しての言及する上で、アニメ第5話と分けた理由は、今回取りあげるエピソードは原作通りのアニメオリジナルではない部分であり、その差異を強調するために分割した次第である。
まずは、アニメ第2話「魔女への訪問者」Aパートについて確認をする。学校から帰宅した倉本千夏は自宅で後から帰宅した木幡真琴とともに過ごしていたところ、春の運び屋と呼ばれる人物が訪れる。まだ、魔女の世界(人ならざるものの世界)に馴染みのない彼女は警戒心から彼を拒絶してしまう。このパートで表れているのは、倉本千夏という少女の優しい性格と自らを客観視できる能力である。倉本千夏が優しい性格をしているということは、母倉本奈々に自らの食べているプリンを素直に分けてあげるだけでなく、自分の食べているプリンを兄倉本圭と木幡真琴にも食してもらいたいと思い、母に頼み込んでいる様子から読み取れ、しかもある程度、自らが家族とはいえ他人に配慮することができる人間であることをある程度自覚しているように思われる。[6]おそらくだが、倉本千夏は家族から優しい子であると普段から言い聞かされながら育ち、大切にされてきたのだろう。年の離れた兄とも親しげな様子を見せるあたり男性に対する特別な恐怖心があるようにも思われない。[7]しかし、そんな倉本千夏でも年齢相応の9歳女児である。客観的に見て怪しくないとは言い難い春の運び屋を外見だけで悪人だと判断し拒絶してしまう。春の運び屋の方はといえば、倉本千夏に特別用事があったわけではなく、魔女である木幡真琴に対して挨拶をしに来ただけであったが、結果として女の子に嫌われてしまうのであった。結局、春の運び屋は滞在中、倉本千夏とまともに会話もできず目も合わせてもらえないまま、職務を終え、別の地域へと旅立つのであるが、ここで春の運び屋が春の花、ペチュニアの小鉢を木幡真琴経由でプレゼントし、倉本千夏は相手のことも良く知らず拒絶してしまった春の運び屋に対して申し訳なく思い、
「まこ姉… 運び屋さん来年も来る?」(石塚千尋『ふらいんぐうぃっち(1)』講談社,2013,P.133より引用)
とつぶやくのであった。
倉本千夏は自他ともに認める優しい健やかな少女である。だがそれは年相応のものであり、人間の世界を今まで生きてきた彼女は春の運び屋という異形の存在に対しては適応されなかった。あのような外見の春の運び屋にも問題がないとは言えないが、倉本千夏はその後、美しい花をプレゼントしてくれた運び屋のことをよく気にかけるようになる。彼女が木幡真琴以外で交流した最初の異界の存在だったからかもしれないが、一体彼女は春の運び屋と再会してなんと言うのだろうか。まだそのことに関しては原作の方でも描かれていないが、筆者が解釈するのであれば、それは「ありがとう」と「あのときはごめんなさい」というありふれた、だがとても大切な暖かい言葉なのだと思うし、そうであってほしいと期待している。
次は、アニメ第6話「おかしなおかし」Aパートについて見てみよう。箒を利用して飛行魔術の練習をする木幡真琴の様子を眺めていた木幡茜[8]に対して倉本千夏は自らも魔女になりたいと懇願し、その方法を訊ねる。それに対して木幡茜は無碍にすることもできず、体験期間として魔女見習いに任命し、その後、魔女関連の不可思議な出来事があるたびに倉本千夏を同行させるようになる。話は多少逸れるが、人から魔女になることは相当難しいという木幡茜の言を考えると、この世界において魔女は血筋や幼少期の教育が重要なのではないかと考えられる。
この部分では倉本千夏が先述してきたように好奇心旺盛な少女であり、その対象が「魔女」という存在にも向けられていることが分かる。だが、これはあくまで好奇心であり、木幡茜に土下座で頼み込む様子や両親に交渉する様子は真剣そのものであったが、木幡真琴に「どのような魔女になりたいか?」と質問されて具体的な回答を持ち合わせていない[9]ところを鑑みると、木幡真琴や木幡茜といった身近な「魔女」だけを見た印象だけで判断した憧れが動機となっている。また、アニメ第10話「料理と合わずと蜂合わず」Bパート[10]で「将来忍者になろう」と発言している辺り、魔女になることそれ自体にそれほど意識が向けられているわけでもなさそうである。倉本千夏が勝ち取った魔女見習いという肩書は、異世界を体感するためのチケット程度に考えた方が良いだろう。
以上のことから、倉本千夏というキャラクターを概括し考察を加えてきたが、アニメにおいては準主人公に該当する程の存在感を持ち、自由奔放な様を見せている。木幡真琴のような優しさと木幡茜の好奇心、自由な心を合わせ持ったキャラクターであり、原作でも魔女や異形の存在と交流してどのような成長を見せてくれるのか、今後が楽しみなキャラクターである。
[1] 9歳児の発達情報としては、
「9歳以降の小学校高学年の時期には、幼児 期を離れ、物事をある程度対象化して認識することができるようになる。対象との間に 距離をおいた分析ができるようになり、知的な活動においてもより分化した追求が可能 となる。自分のことも客観的にとらえられるようになるが、一方、発達の個人差も顕著 になる(いわゆる「9歳の壁」 ) 。身体も大きく成長し、自己肯定感を持ちはじめる時期 であるが、反面、発達の個人差も大きく見られることから、自己に対する肯定的な意識 を持てず、劣等感を持ちやすくなる時期でもある。
また、集団の規則を理解して、集団活動に 主体的に関与したり、遊びなどでは自分たちで決まりを作り、ルールを守るようになる 一方、ギャングエイジとも言われるこの時期は、閉鎖的な子どもの仲間集団 が発生し、付和雷同的な行動が見られる。」(日本文部科学省HP 3.子どもの発達段階ごとの特徴と重視すべき課題 より引用)
というものがあり、個人差は見られるものの、この条件と照合しても倉本千夏は健康的に発達していると言えるだろう。
[2] 石塚千尋『ふらいんぐうぃっち(1)』講談社,2013年 P.87 「第4話 使い魔の活用法」に該当。
[3] 具体的に休日だと記載されているわけではないが、木幡真琴並びに倉本圭が昼間から自宅にいることを考えると平日ではないと考えられる。
[4] 加えて、アニメ第5話「使い魔の活用法」Bパートで倉本千夏は午前の疲労からか、しばらくの間睡眠をとっている。このことからも、9歳児らしい発達を確認することができる。
[5] 石塚千尋『ふらいんぐうぃっち(1)』講談社,2013年 P.111 「第5話 魔女への訪問者」に該当。
[6] 上記と同書 P.113 – 114 参照。アニメの方が原作に比べ、母倉本奈々に褒められていた時の反応が良く表れている。
[7] アニメ第12話「魔女のローブと日々は十人十色」Bパート 参照。原作の方では描かれていないオリジナルであるが、木幡真琴から魔女のローブをプレゼントされはしゃぐ倉本千夏の冗談に兄倉本圭が上手く合わせてあげているシーンが存在する。
[8] 主人公木幡真琴の姉であり、優秀で自由奔放な魔女。大雑把ではあるが、魔術に関しては協会からも一目置かれるほどである。
[9] 石塚千尋『ふらいんぐうぃっち(2)』講談社,2014年 P.111-P.114 参照。
[10] 石塚千尋『ふらいんぐうぃっち(4)』講談社,2016年 P.71 「第21話 魔女蜂合わず」参照。
【次回予告】
最初の記事と比較してなるべく見やすいレイアウトにしてみました。また、今回は「登場人物」の章だけです。思ったよりも長くなってしまったので、いくつに分割するというよりはその時の記事の字数でなるべく読みやすいように区切っていきます。頑張ります...
【参考サイト】
・文部科学省ホームページ → http://www.mext.go.jp/